九谷焼とは
九谷焼の一般的なイメージは「派手な焼物」と言われる事が多い。
まさにその通りだと思います。
三百五十年以上も前に、この石川県の地で焼物が作られたが鉄分を多く含む陶石を使っていたことからその性質上、真白な色の焼物にならず見栄えを良くする為に絵が描かれた事が九谷焼のルーツだと伝えられています。九谷焼は彩色することにより焼物に価値を見出したのです。
以降、加賀百万石、前田家の豪放華麗な文化の中で、その加飾技術は磨き上げられ今日の絢爛豪華な作品の数々が生み出されました。
そして明治期に輸出用の作品として贅沢に金を用い描かれた作品が現代の九谷焼の「派手」なイメージの基になっていることは間違いありません。もちろん九谷焼の中にも染付(藍と白)で描かれたシンプルな作品も多々あります。
しかし最近になり感じるのは九谷焼の派手過ぎるくらいの彩色が持つデザインの強さ、近年、無駄はできるだけ省きシンプルを求めるデザインが多い中で、この九谷焼の無駄とも思えるくらいの加飾(かしょく)あえて過色(かしょく)とも言い替えることができる過度なまでのデザインには華やかな日本の文化を垣間見る事ができると思えるようになりました。
JAPAN KUTANI
明治期、世界が賞賛したのは原色鮮やかで煌びやかな九谷、その華やかな色絵の文化こそ九谷焼が持つ最大の魅力だと思います。
九谷焼の誕生と歴史
山深き、大聖寺川上流の旧九谷村。
訪れる人も疎らな奥山に「古九谷窯址」碑が静かに佇んでいます。
1655年(明暦元年)頃、大聖寺藩(加賀藩の分家)は、この地の陶石をもとに開窯。創出された磁器は、後に「古九谷(こくたに)」と呼ばれ、日本色絵磁器の礎となりました。青(緑)、黄、赤、紫、紺青。濃厚な色彩が自由闊達に躍る上絵(うわえ)は、九谷焼の”美の源流”です。
しかし、わずか半世紀で謎に包まれた廃窯。この古九谷の謎の消滅が現代においても解明されていない大きな謎となっており、九谷焼の神秘性を高める一説となっております。
その約100年後(空白の100年)、加賀藩の奨励により、九谷焼は再び覚醒します。
春日山(かすがやま)窯、若杉(わかすぎ)窯が開窯、「再興九谷」の気運に乗じた吉田屋(よしだや)窯らが次々に色絵磁器を生産するなど、さまざまな感性が競い合い融合し、今日に受け継がれる百花繚乱の上絵技術が誕生しました。
近代においては、華やかな彩色金襴手(さいしょくきんらんで)の作風が「ジャパンクタニ」の名で欧米に深く浸透しています。謎多き「古九谷」に始まった芸術性の高い陶磁器は「再興九谷」で実用性を備え、用の美を具有する九谷焼はいつの時代においても、その時代に合った美へと進化し続ける稀有な伝統工芸であると言えます。